【旅行】カンボジア・ベトナム10~感想など~
カンボジア・ベトナム旅行記10回目です。多分これでラストです。
1回目で書いたように、実は今回の旅行、そんなに楽しみではなかったんです。行くべきところは早めに消化しちゃおう!みたいな感じで。で、その結果どうだったか。やっぱり「行きたい」と思えるところ、わくわくするところに行くべきだと思いました。
「行ってよかった旅行先」で、アンコールワットって上位にあがっているじゃないなですか。だからついつい、見ておかなきゃと思って足を運んだわけですが、あまりわたしの琴線には触れなかったです。行かなきゃよかったとは全く思いませんが、限られた時間とお金を考慮すると、もっと別の国に行けばよかったかな、とは思いました。
時間とお金が無限にあればいいんですよ。でもそうじゃないから、ちゃんと自分が行きたいところ、見たいところを、ひとの意見に左右されすぎずに見極めなければならないなと感じています。
あと、「行きたい場所ランキング」って、当然だけどあまりあてにしてはいけない、というか、参考程度にとどめておくべきだなあ、って。そもそもアンケートの結果にせよ誰かの独断によるものにせよ、すべての国、すべての場所に行ったひとなんていないはずで、そのひとたちの「行ったことのある限られた場所」から選ばれているにすぎないものですよね。
そろそろ自分の好みがわかってきていると思うので、自分の気持ちに素直に、行きたい場所、心が躍る場所を旅行先に選んでいきたいです。
さて、旅行中に読んだ本に絡めた話を少し。大抵、出発前に空港の本屋さんでそのときの気分に合わせて数冊本を買い、旅行先に持っていきます。今回はこれでした。
浅田次郎『かわいい自分には旅をさせよ』です。
これがよかった。とても。色んな場所、色んな美しいもの、浅田次郎先生が見たもの、感じたことなどが綴られているエッセイ集です。
収録されている「祇園の夜桜」というタイトルのエッセイに、心を打たれた一文がありました。
審美眼も鑑賞眼も教養も、その圧倒的な美しさの前には無力である。
今回の旅行で、主にアンコールワットを見ているとき、ああ知識不足だな、もっと勉強すれば楽しく見れたのかな、と感じてしまいました。言い換えれば、知識がない自分は、そんなに興味深く見られなかったんです。これは完全に自分のせいなんですが。
ウユニに行ったとき、サハラ砂漠に行ったとき、その美しさ、広大さに本当に圧倒されました。その大自然を前に、なんの理屈もなしに、ただただ目の前に広がる景色に釘づけになりました。頭で考えず、自由に心で感じることができた。それは今でも忘れられません。ケルン大聖堂やブルーモスクを見たときも同じような感覚でした。そこにどんな歴史が、事情が、背景が、価値があるのかどうかを考えることもなく、他人の評価を考慮することなく、自分の心が躍りました。
わたしにとってアンコールワットはそういう「圧倒的な美しさ」の対象ではなかったのだと思います。もちろんアンコールワットに価値がないのではありません。ただ、わたしにとっては「知識がなければ面白さが半減してしまう」場所でした。
なんやかんや書きましたが。
久しぶりの東南アジアはなんだか懐かしい感じがしました。雑然とした街並みや温かい風、独特の匂い。とてもすきです。また東南アジアのどこかには行きたいと思っています。
現在は9月の旅行を計画中です。旅行癖は相変わらずです。
前回の記事。
【旅行】カンボジア・ベトナム9~ハノイを急ぎ足で~
カンボジア・ベトナム旅行記9回目です。実はまだ完結していません。もう3か月も前なのに。中途半端が気持ち悪いので、何が何でも終わらせます。
※8回目はこちら。
mitakiitayonnda.hatenablog.com
シェムリアップを後にして着いたのはベトナム・ハノイです。ベトナムはずっと行きたかった国なのでわくわく。ホーチミンかハノイかで迷ったのですが、古き良きベトナムの面影が残る街、ということでハノイにしました。
若干の遅れはあったのものの、ほぼ定刻通りにハノイ着。ホテルにピックアップを頼んであったので、名前の書かれたプレートを持っているひとを探し、すぐに見つけました。ピックアップは18ドル。安くはないですが、安心のためお願いしておきました。
シェムリアップから入ったということもあって、ハノイの発展ぶりに驚きました。空港から市街までの道も快適でした。
ホテルに着いたのは夜だったので、その日はすぐに就寝。おやすみなさい。
翌日。まさかの、雨。ハノイは雨が多いと聞いていたものの、少々テンションが下がりました。先に書いておくと、実は滞在中ずっと雨でした。そしてものすごく寒かったです。こんなことならホーチミンにすればよかったと思ってしまうくらい雨と寒さにやられました。
ハノイ、3日間滞在だったのですが、実はこれといって特別なことはしていないんですよね。ぶらぶら街歩いて色々食べていただけなんですよね。それはそれで楽しかったんですが。
楽しかったんですが、正直少し、期待していたほどでも、と思ってしまいました。わたしの期待が高すぎたのかもしれません。なんというか、ああ社会主義国だからかなあ、と思うことがしばしば。お店はたくさんあるのですが、商売っ気がないんですよね、皆さま。値切れないし。(これはそういうシステムなのかもしれません)
あと、国民性?かしら。皆さんちょっとそっけない感じでした。あくまで観光で感じたことなので、本当のベトナムの皆さまの姿はそんなんじゃないのかもしれませんが。少々さみしかったです。
それでも街歩きはそれなりに楽しかったし、食べ物もおいしかったので、それらを少し紹介します。
金魚屋さん。
これも社会主義国?だからなのでしょうか、同じものを売っているお店屋さんが連なって何件か並んでいます。金魚屋さんも何件か並んでいました。
おいしいと評判のフォーのお店、「ザーチュエン」。
朝からすごい人です。
これがタイ・ナム。美味しかったです。美味しかったんですが、ここまで並んで食べるほどでは、と思ってしまいました。フォーってどこで食べても大体美味しい。
提灯がたくさんありました。こういう色づかい好きです。
ベトナムっぽい。
こっちも。
これは中国っぽい…
チェ―。
これは冷たいチェ―。
寒かったので温かいチェーも。
これがとてもおいしく、滞在中3回食べました。ものすごくおいしかった。
「New Day」というレストランでのコース。
値段忘れちゃったんですが、安かったことだけは覚えています。美味しかった。
ここでたまたま日本人の一人旅行者と相席になり、いろいろお話しました。会社員さんなんですが、お休みのたびに旅行に行っている方で、おすすめの旅行先などを教えてもらいました。
街並み。
いろんなものがこうして売られています。
本屋さんもありました。
ハノイは思ったより本屋さんが多かったです。一角に集中していましたが。
街歩きではないですが、ホーチミン廟にも行きました。
ホーチミンの遺体が安置されていてそれを見学することができます。わたしも中に入ってみました。中は撮影厳禁です。ものすごくセキュリティが厳しいです。
共産主義カラーで彩られているカフェ「コン・カフェ」。
ベトナムコーヒーを飲みました。とても雰囲気のいいカフェで、ついつい長居してしまいました。おしゃれです。
道で女性が売っている(ものすごい勢いで売ってきます)揚げパン?みたいなの。
これも値段覚えてないのですが、「え、高い…!」と思ったことは覚えています。そしてそんなにおいしくない…
食べてばっかりですね。実際に食べてるときの記憶がほとんどです。
晴れていたらもっと積極的に歩いていろんなところに行けたんですが、それだけが残念です。
帰りもホテルに頼んで空港まで送ってもらいました。18ドル。
ちなみに宿泊したのはこちら。
May de Ville Backpackers Hostel - Hostel
帰りの空港への車は前日に頼んでおきました。親切な受付のお姉さんがちゃんと手配してくれました。
とても急ぎ足ですが、ベトナムはこんな感じでした。
ハノイが、「古き良き、ノスタルジックな街」かどうかはすこーし疑問ですが、旧市街の雑然とした感じはわたし好みでした。バイクが多いのには心が折れそうでしたが。滞在中3回バイクと接触しました。
【映画】運命を信じますか?/『(500)日のサマー』
運命を信じますか?運命の人はいると思いますか?
わたしはあまり信じていませんでした。運命とか、縁とか、そういうものをあまり肯定したくありませんでした。そういうものを肯定してしまうと、自分ではどうしようもできない事柄が存在することを認めてしまうようで、どうあがいても仕方がないことがあることを理解しなきゃいけないようで。そんな理由です。
大学受験や部活、資格試験、そういうものって、自分の力で結果を出したという面が大きいじゃないですか。もちろん運なんかも作用するし、周りの協力があってこそというのも当然なんですが、それでも自分が努力さえすればなんとかなってきた、というか、なんとかしてきたんですよね。手に入れたいものがあればそのために努力する。なんとしてでも手に入れる。これまでそういう力技でなんとかなっちゃってた。手に入らなかったものは単に自分の頑張りが足りなかったって、自分を納得させていました。
でも、ひととひととの関係って、そんなに単純じゃないですよね。わたしは30年近く生きてきてやっとわかりました。遅い。
自分が頑張ったところで相手を気持ちをコントロールできるわけではない。関係を維持したり発展させたりするためにはもちろん相手を思いやったり気遣ったり自分を制御したりすることが必要だけど、それが必ずしも自分の思い通りの結果になるとは限らないし、まして相手の気持ちを動かしたり変えたりすることが簡単にできるわけじゃない。
どんなにすきなひとがいても、そのひとが自分のことを同様に思ってくれるわけでなはい。自分が望む関係になれるわけでなはい。そういうとき、もう「縁がなかった」と割り切るしかないのかもしれない。運命のひとじゃなかった、そう思うしかないのかもしれない。
愛なんて、運命なんて信じないサマー。反対にサマーを運命の相手だと思いこむトム。
けれど結局、サマーはトムではない、“運命の人”と結婚します。
これって、サマーはこれまで“運命の人”と思えるひとに出会っていなかっただけなんですよね。運命を頑なに否定し、恋人というレッテルを張るのを嫌がり、型通りの関係におさまろうとしなかったサマーが、トムにこう言うんです。
私たちは運命じゃなかった
理屈じゃないと思います、こういうのって。理由を言葉ではうまく説明できない。
運命か運命じゃないかなんてどんなポイントでも見つけられる、どんなひとにでも運命だと思えることを探し出せる、でもそれをするかどうか。
身も蓋もない言い方をすれば、誰だって運命の相手になりえるんですよね。そこを自分でどう感じるかどうか。
もうね、人間同士の関係ほどやっかいでめんどうで難しいものはありません。もういいやって投げ出したくなる。それでも、それでも誰かと一緒にいることの素晴らしさを知っているから、結局またひとをすきになったり、尊敬したり、愛おしいと思ったりするんでしょうね。
失恋映画です。失恋して立ち直れていない男女の皆さまにお勧めです。わたしのすきな映画のひとつです。
ラストがね、ものすごくいいんです。ここでは書きませんが、元気が出る終わり方です。ぜひご覧ください。
作品情報】
『(500)日のサマー』(原題 <500>Days of Summer)
監督:マーク・ウェブ
出演:ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル
製作国:アメリカ合衆国
公開:米 2009年 日 2010年
【今日のこと】2016年5月1日(352)
GW。出かけてもひとひとひとなので、家で大人しく読書したりDVD観たりしていました。よい休日。
注文していた本も届き、読みたい本がどんどんたまってゆきます。読むべき本があるうちは生きていられる気がする。というかそれを理由に、だましだまし生きているだけかもしれない。どっちでもいい、生きていれば。
【映画】“幸せ”になる方法を知っているから/『ズートピア』
パパとママが幸せなのはなぜだかわかるか?
それは夢を諦めたからだ。
メモしてないのでうろ覚えですが、警察官になることを夢見る幼き日の主人公に父親がかけた言葉です。動物が人間のように暮らすこの世界でも「差別」があり、ウサギのような弱い草食動物が警察官になったという前例がありません。ウサギは人参を育てながら“ウサギらしく”暮らしてゆくことが幸せなんだと、主人公の周りの大人のウサギたちは言います。
しかし主人公ジュディ・ホップスは諦めませんでした。警察学校の同期たちはジュディの何倍も大きな肉食動物。身体能力の差はあきらかです。それでも努力に努力を重ね、ジュディは首席で警察学校を卒業します。
それなのに、配属先でジュディに与えられた任務は違法駐車の取り締まりでした。優秀な成績で卒業したのに、ここでもジュディは差別されるのでした。
ものすごーく簡単に言ってしまえば、「諦めなければ夢はかなう!」という映画です。
前述したように警察官としては恵まれた境遇ではないジュディが、諦めず困難に立ち向かい問題を解決し皆に認められました、ハッピーエンド!ストーリーは単純なんですが、わかりやすくテンポもよく、心地よく観ることができました。さすがディズニー。とはいえ、これもディズニーっぽさではあるんですが、ど直球で大人の心にも響かせてくるんですよね。20歳前後だと変にすれてて「こんなの子供だましだ!」なんて思っちゃうかもしれないんですが、そういう時期も過ぎ、こういうきれいごとのようなお話に励まされることもあるんだなあと感じています。
舞台となっている大都会のズートピアという街は、「誰でも、何にでもなれる場所」と謳われています。色んな種類の動物が尊重し合って生きている街。自由な街、理想の街。
「誰でも、何にでもなれる場所」。わたしたちの多くは(多くなかったらごめんなさい)、大人になるにつれてそんな場所がないこと、自分がなれるものに限界があることという現実と折り合いをつけていきます。なぜなら、それが“幸せ”になる方法だから。ジュディの父親が言ったように。でもきっとそんなこともなく、なりたいものを思い描き続け、その実現のための正しい方法を見極め努力していけば、きっと「何にでもなれる」のかもしれません。それでもわたしたち(また“たち”と書いてしまった)は夢を諦める。いろんな理由で。そして、夢を追う人たちが出会う多大な困難に立ち向かう必要がない日々を、“幸せ”と呼ぶようになる。
わたしは必ずしも夢を追い続けることが大切だとはまったく思っていません。けれど、きっとこういうお話にぐっとくる大人が少なからずいるのは、折り合いをつけたはずの夢をどこかでひきずっているからなんだと思います。しつこいですが、それを悪いこととは思いません。ただ、恐らくわたしたちは、夢とは完全に決別することは難しく、どんな形であれ長い間付き合っていかなくてはならないんだろうなあと思いました。
楽しく観られる映画です。
上戸彩の声がとてもいい!ジュディかわいい!映像がきれい!日本語版の歌もいい!
【作品情報】
『ズートピア』(原題 Zootopia)
監督:バイロン・ハワード、リッチ・ムーア
製作国:アメリカ
公開:2016年
【今日のこと】2016年4月27日(356)
お弁当にサラダを持っていったのにドレッシングを忘れました。そのまま食べました。味気ないランチでした。
お仕事はまだまだ全然慣れないけれど、それでも少しずつ理解できていく感覚が楽しい。わからないときはフラストレーションしか感じないんですが。ちょっとずつちょっとずつできることが増えるといいなあ。
そんなに我武者羅になって仕事をしたってって思うときもあるけれど、やっぱりわたしは仕事が好きだなあと思いました。
【今日のこと】2016年4月26日(357)
起きたら朝だった。化粧も落とさず寝てしまっていた。なんだかんだでこういうのってものすごく精神的によくない。ちゃんと寝てちゃんと起きるのがいい。
天気もよかったせいか、ぼんやりと前向きに考え事ができた。最近は落ち込むことの方が多く、それは主に人間関係が原因。関係が悪くなるというより、思ったような関係を築けなくて勝手に傷つくということが多い。そうすると、ああこのひととは出会わなければよかったなあなんて思うんだけど、今日みたいに穏やかな日は、ありきたりだけど出会えただけでよかったのかもしれないと思えてくる。このひとと出会えて一瞬でも楽しい幸せな時間を過ごせて、それはきっと、とても素敵なことなのだ、って。
なんてきれいに書いているけれど、大半の日々は「こんなに辛いなら出会わなきゃよかったよ!」って思っています。
【本】罪と、償いについて/『サブマリン』(伊坂幸太郎)
読みました。
大学生まで、ずっと伊坂幸太郎さんの作品に助けられてきました。あまり生きるのがうまくなかったので、しんどいことがたくさんあって。そういう時、伊坂幸太郎さんの本を読んで元気をもらっていました。
社会人になって、わたしの独善的で偏狭な思考がやや(あくまで、やや)改善され、むやみやたらに傷つくことも減り、伊坂さんの作品を必要とする機会も少なくなりました。伊坂さんの作風も変わり、寂しい気持ちもとてもあったけれど、伊坂さんから少し離れていました。
しかし。きましたね。チルドレンの続編が。これは期待しちゃいますよね。迷うことなく買っちゃいますよね。そして、期待は裏切られませんでした。どころか、期待を上回ってくださいました。
少し前にさらっと書いたのですが、とても大切なひとに迷惑をかけ、怒らせ、関係を絶たれてしまったことが最近ありました。早い段階で謝る機会は与えてもらえたのですが、そのひとが許してくれたかどうかはわからないし、とりあえずもう以前のような信頼関係は絶対に築けない。というか、話すこともきっとできない。このときから、わたしはずっと罪の意識を感じています。大袈裟なのはわかっているのですが、この過ちをどうすればいいのか。そのひとから「許す」と言われれば気持ちが落ち着くのか。でも謝ることは自己満足なんじゃないか。
当然ですが犯罪ではないので法的な罰はありません。でも、“だから”、よけいに辛かった。いっそそれが犯罪で、明確な罰が与えられればいいのにと思ってしまいました。与えられた罰を受けさえすれば社会的には許されたことになる。そっちの方が楽なんじゃないかって。間違った考え方なのはわかっています。
法に触れる行為をし、それ相応の罰を受ける。わたしはこのことに対し、あまり深い考えを持っていません。というのは、文字のとおりだと思っているからです。「法に触れる行為をした」→「それに応じた罰を受ける」、ただそれだけのこと。そこに、善悪や道徳的倫理的な考えを、わたしはあまり介入させたくないんです。だってなにが「いいこと」でなにが「わるいこと」なんてわからないじゃないですか。いいわるいってなんですか。
だから、“法”という物差しではかったときに「この行為はアウト」っていうだけで、同じく“法”で決められた罰を受けさえすればこの一連の出来事はおしまいにしてもいいとも思っているんです。もちろん、被害者や遺族を無視していいわけじゃない。彼らを軽んじていいはずはない。それでも加害者は、罰が済めばもう犯した罪に対する責任はない。
そう考えてはいるものの、絶対に加害者の心境はそんなに簡単じゃないとも思っています。自分のしてしまったことに対して全く罪悪感を抱いていない場合もあるかもしれませんが、罰を受け、その責任が“法的”になくなったとしても、加害者は罪の意識をずっと持ち続けて生きてゆくのではないのでしょうか。加害者は償った。被害者が許そうが許すまいが、今日の日本では刑を終えれば“償った”ことになる。それでもきっと、償いきれないという気持ちを、加害者の多くは持っているのでないでしょうか。
さっき、わたしがしてしまったことについて、「いっそそれが犯罪で、明確な罰が与えられればいいのに」って書きましたが、犯罪じゃないならそれこそ罰を受ける必要はどこにもなく、別に償う必要もないのでしょう。それでもこの罪悪感は、その件以降、ずっとわたしの心の中から消えてくれません。いわゆるイイコト―電車でひとに席を譲る、街でごみを拾う、会社で進んで雑用をする―をしてみても、何をしても消えないんです。わたしでこれなんだから、なにかの拍子に罪を犯してしまったひとの心中は、想像を絶するものなのでしょうね。
作中に不注意の事故によって人の命を奪ってしまった男性が出てきます。刑(未成年であったため正確には刑ではないのですが)を終え、罪を償った。けれど、その事故がきっかけで、別の人間が事故で人を殺めてしまった。「あの事故さえなければ」と、罪を償った男性は思い詰めてしまいます。そんな彼が、「自分は生きていていいのか」と問うシーンがあります。
武藤さん、俺、生きていていいんですかね。
若林青年が半べそをかくように言ってきた。それは言うまでもなく愚問で、答えは考えるまでもなく一つしかなく、「いいに決まっている」と答える。
(213頁)
簡単じゃないですよね。立場によって思うことは全く違うし、言っていいことも変わってくる。罪を、過ちを犯さないことが一番いいのは当然だけど、人間はたまに間違うので、罪や罰、償いについて、考えざるをえないんだと思います。
罪を犯すこと、罰を受けること、償うことを、伊坂さんらしい視点で描いた作品でした。さすがです。
最後に気に入ったシーンをもう一つ。
人を撥ねてしまった少年が、「人を撥ねた奴を、撥ねたらどうして駄目なんだよ。おかしいだろ」と声を荒げる場面です。
「気持ちは分かる」陣内さんも言った。「試合中、ファウルされた側が病院に送られたってのに、反則したほうの選手はプレイを続けているようなもんだよな」
「はい」
「だけど、そいつをタックルして病院送りにすればいいってもんじゃねえだろうが」
そうですかね?というような表情で、棚岡佑真は黙った。少し下を向いている。病院送りにして何がいけないんですか、と言いたいのだろうが、気持ちはどうせ分かってもらえないのだ、と諦めたのかもしれない。
(165頁)
そこで陣内さんがこう言います。
「誤審ばっかりなんだよ」
(165頁)
誤審ばっかりなんだよ。そうなんですよね。さんざん“法”に則ることがさも正しいかのように書いてきましたが、ひと、法、社会は、いつだって誤審をしてしまう。だから不条理なことがいっぱいあって、辛くて、やりきれなくて、悲しい思いをするひとが溢れているんだと思います。
長くなりましたが。
昔の伊坂作品がすきな方にはおすすめです。
【今日のこと】2016年4月24日(359)
11時からの用事まで、スタバでモーニングがてら読書。店員さんが新人さんで、先輩に教わりながらたどたどしく接客してくれました。微笑ましい。心の中でエールを送りました。がんばってね。
となりのとなりのテーブルでは50代くらいの男女が何やら込み合ったお話を。女性はついに涙を流す。なんぞやと思っていると、男性がそっとその女性の涙を拭くではありませんか。話の内容からしてとても深刻そうで、こんなこと思ってはだめなんでしょうが、どんなに辛いことがあってもそばで涙を拭いてくれる誰かがいるのは幸せなことで、少しうらやましかったです。
【今日のこと】2016年4月23日(360)
6時半起床。休日に早起きできるとそれだけでとても気分がいい。7時には家を出、映画館へ。『アイヒマン・ショー』と『スポットライト』を観た。
休日の街はひとがいっぱい。休憩しようとしてもカフェは満席。みんな、どんな用事で街へ繰り出しているのだろうと考える。みんな楽しそうに道を歩いていて、わたしみたいに映画観ることとどうしてもやらなければいけないこと(医者に行くとか)以外に繁華街に行く必要もない人間からしてみると、ひとさまの外出目的を単純に知りたくなってしまう。案外、わたしのようにやらなければいけないこと(医者に行くとか)のために外出しているひとも多いのかもしれない。