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【感想文】今と、過去と、時代について/『地下鉄に乗って』

「歴史にifは禁物」であるという。人生についてもまた然りで、「もしもあのとき」と考えることはほとほと無意味である。それでも、そうは解っていても、考えてしまうことがある。選ばなかった道について。起こさなかった行動について。または選んだ道について、そして起こした行動について。今とは違う今があったのかもしれない、と考えてしまう。そんなものありはしないのに。

 

変えたい今が、変えたい過去がある。後悔がある。そんなとき人は、「もしもあのとき」にすがってしまうではないだろうか。

 

私もよく考える。あのときこうしていたら、あのときこう言っていたら、あのとき、あのとき、あのとき。「あのとき」別れたもうひとつの人生を見ることは決してできないから、余計にそれが今よりいいものであったのではないかと期待してしまう。

 

それでももし、過去に行くことができたら?「あのとき」に戻ることができたら?ちゃんと思い通りに過去を修正して望んだ今を手に入れらるのだろうか。何をしても、何を選んでも、結局行きつく先は「今」の「今」で、何も変わらないかもしれない。それが運命なのかもしれない。

 

主人公の小沼真次には消化できずにいる過去があった。彼の人生を大きく変えてしまった出来事があった。ずっと引きずって生きていた。

あるとき、彼は奇妙な体験をする。彼が今暮らしている時代とは異なる時代に足を踏み入れてしまう。それも何度も。それぞれ違う時代に。さまざまな時代に。そしてそこで、彼は彼自身を縛っている人々に接触する。

 

結局真次は、変えられなかった今、変えてしまった今を受け入れるしかないのだが、それがとてもやるせない。変えること、変えないこと、どちらがよかったのか。

 

過ぎし日の、ひょんなことで、本当に些細なのことで、きっと今は違っていた。それを悔やみながら生きてゆくのだと思う。悔やむことのない、苦しめる過去のない生き方ができれば立派だが、そんなに強くはない。それでも、悲しみも苦しみも後悔も全部抱えながら、ちゃんと生きてゆかなければならない。

 

『地下鉄に乗って』(浅田次郎