ベーグルに憧れている

書きたいときに書きたいことを

【雑記】ふしあわせの集中

先日、知人の不幸があった。この不幸っていうのは、お亡くなりになられた、という意味での。そんなに近しい中でもなく、そもそもわたし自身はお会いしたこともないので葬儀などには出席していない。ただその知人は、「ちょっとはやかったね」と言われる年齢で亡くなった。

その知人は、わたしの目から見て、控え目にいってあまり恵まれている環境ではなかった。ご両親の問題、ご自身の夫婦関係の問題、お子さんの問題、いろいろ抱えてた。なんでこれほどまでに、と思うほどだった。客観的な事実、というか、表面にあらわれる事象でしかその知人の環境はわからないのだけど。だけどわたしは、「なんでこの人に、この人の家族に、こんなに“ふこう”が起こるのだろう」と思った。

 

“ふこう”と書いたのは、それってそれぞれの主観の問題で、またそれはちゃんと定義づけをしないと議論にならないことだから。だから一旦、“ふこう”はこのままにして話を進めたい。「不幸なんてひとそれぞれ」なんて言っちゃったらこの話、進まないので。

 

この知人だけではなく、どうしてこんなにこの人には“ふこう”が集まるのだろうということがしばしばある。あまり具体的に書きたくないけど、ほんとにある。そういうのに触れるたび、どうしてだろうと思う。

 

それとは逆に、ほんとうに“ふこう”を知らずに暮らしている人もいる。お金があって、家族皆健康で仲がいい。それが当たり前のひとたち。

 

少し前の朝ドラ『純と愛』って、それこそ“ふこう”の連続だった。お母さんが認知症になり、お父さんが亡くなり、愛くんが病気になる。もういいよなんでこんなに“ふこう”が続くのよって思って見てたけど、実際にそういう人っているんだ。

 

なんでこうも、“ふこう”が集中するのだろう。もちろんすべての“しあわせ”と“ふしあわせ”がそんなに極端に人々に起こっているわけではないんだけど、なんというか、もう少しこの人の“ふこう”を別の人に振り分けてもいいんじゃないか、と思うときがある。“しあわせ”な人を“ふこう”にしたいのでは全くなく、“しあわせ”な人が“ふこう”な人の負担を少しだけ背負ってあげてもいいんじゃないか、という考えで。めちゃくちゃな考えなんだろうけど。

 

神様を心から信じてるわけでもないし、どちらかといえば運命の類は否定したい。それでも、そのひとたちを見てると、どうしてこんなに神様は意地悪なの、と思ってしまう。「神様がいるならこんなに“ふこう”になるひとがいるわけない!」というよりも、「神様が意地悪しなきゃこんなに“ふこう”が集中するわけない!」と思えてしまう。

 

悲しいことや辛いことなんて極力少ないほうがいいに決まってるから、わたしが外から見て感じたその人たちの“ふこう”と当事者本人たちの認識が少しでも違っているといいのに、というのがせめてもの願い。