【本】例えば“X”を否定する為に“X”を手に入れるということ/『名も無き世界のエンドロール』
ちょっとね、「力」がほしいなーと思うできごとがありまして。
「力」って抽象的すぎるけど。とにかく、そう思ってしまった。
社会的にものすごく名のある企業に勤めてる人の言動が気に入らなかったという、よくあるはなし。地位もお金もある人くせになんでそんなことするんだよ、っていう、地位もお金もないわたしのやっかみです。
そうなんだよ、わたしがその人の文句を言うとどうしても「地位もお金もあるくせに」って、その人の人格とは本来関係ないであろうことと結び付けちゃうんですよね。で、結果、ただの“やっかみ”になっちゃう。(ところで”やっかみ”って方言なんですか?)
たとえば、わたしはとても独善的で偏った考え方をしているので(これは人から指摘されて自覚した)、「権力」というものを嫌悪してる。でも今のわたしが「権力」を否定すると、これまた「権力」を持ってない者の”やっかみ”になってしまうのではないでしょうかね。
「ほんとはそれが欲しいのに手に入らないから憎んでんでしょ」みたいな。
だから「権力」を否定するために「権力」が欲しいとも思う。権力だけじゃなくて、お金とか、学歴とか、いろいろ。それを否定したいから、それを手に入れる。これってどうなの。
なんだかんだ理由つけてるけど、それって結局、「それが欲しいけどなんかそれ欲しがってると世間体悪いしちゃんと理由つけて手に入れよっと」っていう姿勢なんじゃないのかなと思っているのです。自分のことなのによくわからない。
とある“X”というものを否定する為には自分も“X”を持ってなきゃいけない、そう思ってたんだけど、でも“X”というものを自分が持っていてそれを手放す気もないくせにその“X”を否定するって、安全なところからの否定でしかなく、なんだか卑怯な気がする。
ただ、“X”を持っていない時点でそれを否定しても、「手に入れていないがための嫌悪」なだけかもしれないし、となると、“X”を手に入れてその状態を経験した後でそれを自ら手放して否定する、というスタンスがよいのでしょうかね。よいとかよくないとかないんだろうけどさ。
これ読んだ。
「カネ」って、「力」って、すごいなと思った。青臭いこと書くけど、やっぱり「カネ」とか「力」の汚いところに辟易する。でもそれに抵抗するには「カネ」と「力」をもってするのが簡単なんだろうな。