ベーグルに憧れている

書きたいときに書きたいことを

【本】「好き」が意味すること/『この世は二人組ではできあがらない』

今読んでる本が長くて、読みおわるの待ってるとなかなかブログ書けなくなるので、今回はこれまでのストックのなかから選んで書きます。

 

山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

 

 

『人のセックスを笑うな』を数年前に読んで、「なんか文学部女子が好きそうな作品だな」という文学部女子に対する偏見に満ちた感想を抱いたきり、ナオコーラさんの作品読んでなかったんだけど、これはタイトルに惹かれて買ってしまった。(ちなみにわたしは文学部ではありません。そして文学部女子に憧れを抱いています)

 

帯には「ポップな社会派小説」って書かれてたけど。日常系?っていうの?そんな感じなんだけど、日常系の使い方あってますか?ふんわりゆるーく社会に疑問を投げかけちゃってる感じ、と、わたしは捉えました。やっぱりごめんなさい、わたしはもう少し硬派な社会派が好きなんです。

 

でもね、読んでよかった。

自分がいつも考えている、でもなかなか言葉にできないもやっとしたことを言語化してくれている小説(じゃなくてもいいけど)って、ほんと、いい。今回はこれ、この部分がそれ。

 好きだ、という科白をひとりの異性にしか使ってはいけないという社会通念を、私はばかにしていた。どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか、不思議だった。

 だから、好きだ、というのを、二人組になりたいという意味には捉えないことにしていた。

(本文 23頁から引用)

 

「好き」という言葉、今って男女の関係において多くの場合は、「二人組になりたい」として使われているんだよね。いやもちろんいろんな「好き」があるんだけど、最高峰の「好き」は、やっぱり「二人組」になるという意図を含んでる。

これ、わたし嫌なんです。というか、わたしにとってそうじゃない。わたし、とてもとても好きな人がいて。男性なんですけれど。でも別にその人と「二人組」になりたいわけじゃない。彼女にしてほしいわけじゃない、キスしたいわけじゃない、セックスしたいわけじゃない。よくわからない「好き」なんだけど、少なくとも、恋愛感情という枠にははまらない「好き」。ものすごく好き。

でもさ、その人にはちゃんと「二人組」になってるの。ちゃんと「片方」がいるの。それがすごく、すごくさみしい。

その人にとって一番大切な「女性」はその人で、今後の長い人生をその「二人組」で営んでゆくわけで。

彼のなかに、わたしはどれくらい入れてもらえてるんだろう、って思って、きっと少ないんだろうな、彼にとって重要なのは「二人組」なんだろうな、って思った。

 

わたしにも以前、付き合ってくださっていた方がいて、その人のことはすごく好きだったんだけど、その人と同じくらい好きな人がたくさんいた。浮気とかじゃないと思う。「好き」の種類が違ったから。でも、彼氏と同じくらいにその人たちが大切だった。だから、うまくいかなくなった。

 

「好き」って言葉って、いろんな気持ちを内包しすぎてる。「好き」な気持ちを表す言葉、「好き」だけじゃ足りないでしょ。

それなのに、それこそ「社会通念」にのっとれば、「好き」が意味することってものすごく狭い気がする。もっと気軽に人を好きになって、それを伝えていいと思う。彼女がいる男性に「好き」って言っちゃいけないって、そんなのさみしい。この人はあの人のものだから、って、いやだ。「二人組」になることを前提にしない「好き」だって、そんなに不健全じゃない。

 

浮気賛成!とまでは思ってないけど、もっとフラットに、いろんな営みを「二人組」に限定しなくてもいいと思ってます。

 

そうそう、この「二人組」とかの話で、『ラストフレンズ』を思い出しました。

ラスト・フレンズ ディレクターズカット 完全版 [DVD]

ラスト・フレンズ ディレクターズカット 完全版 [DVD]

 

 長澤まさみと瑛太と上野樹里が、「二人組」になってなくて、ああこういうのいいなーって思った。