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【本】罪と、償いについて/『サブマリン』(伊坂幸太郎)

読みました。

サブマリン

サブマリン

 

大学生まで、ずっと伊坂幸太郎さんの作品に助けられてきました。あまり生きるのがうまくなかったので、しんどいことがたくさんあって。そういう時、伊坂幸太郎さんの本を読んで元気をもらっていました。

社会人になって、わたしの独善的で偏狭な思考がやや(あくまで、やや)改善され、むやみやたらに傷つくことも減り、伊坂さんの作品を必要とする機会も少なくなりました。伊坂さんの作風も変わり、寂しい気持ちもとてもあったけれど、伊坂さんから少し離れていました。

しかし。きましたね。チルドレンの続編が。これは期待しちゃいますよね。迷うことなく買っちゃいますよね。そして、期待は裏切られませんでした。どころか、期待を上回ってくださいました。

 

 

少し前にさらっと書いたのですが、とても大切なひとに迷惑をかけ、怒らせ、関係を絶たれてしまったことが最近ありました。早い段階で謝る機会は与えてもらえたのですが、そのひとが許してくれたかどうかはわからないし、とりあえずもう以前のような信頼関係は絶対に築けない。というか、話すこともきっとできない。このときから、わたしはずっと罪の意識を感じています。大袈裟なのはわかっているのですが、この過ちをどうすればいいのか。そのひとから「許す」と言われれば気持ちが落ち着くのか。でも謝ることは自己満足なんじゃないか。

当然ですが犯罪ではないので法的な罰はありません。でも、“だから”、よけいに辛かった。いっそそれが犯罪で、明確な罰が与えられればいいのにと思ってしまいました。与えられた罰を受けさえすれば社会的には許されたことになる。そっちの方が楽なんじゃないかって。間違った考え方なのはわかっています。

 

法に触れる行為をし、それ相応の罰を受ける。わたしはこのことに対し、あまり深い考えを持っていません。というのは、文字のとおりだと思っているからです。「法に触れる行為をした」→「それに応じた罰を受ける」、ただそれだけのこと。そこに、善悪や道徳的倫理的な考えを、わたしはあまり介入させたくないんです。だってなにが「いいこと」でなにが「わるいこと」なんてわからないじゃないですか。いいわるいってなんですか。

だから、“法”という物差しではかったときに「この行為はアウト」っていうだけで、同じく“法”で決められた罰を受けさえすればこの一連の出来事はおしまいにしてもいいとも思っているんです。もちろん、被害者や遺族を無視していいわけじゃない。彼らを軽んじていいはずはない。それでも加害者は、罰が済めばもう犯した罪に対する責任はない。

 

そう考えてはいるものの、絶対に加害者の心境はそんなに簡単じゃないとも思っています。自分のしてしまったことに対して全く罪悪感を抱いていない場合もあるかもしれませんが、罰を受け、その責任が“法的”になくなったとしても、加害者は罪の意識をずっと持ち続けて生きてゆくのではないのでしょうか。加害者は償った。被害者が許そうが許すまいが、今日の日本では刑を終えれば“償った”ことになる。それでもきっと、償いきれないという気持ちを、加害者の多くは持っているのでないでしょうか。

さっき、わたしがしてしまったことについて、「いっそそれが犯罪で、明確な罰が与えられればいいのに」って書きましたが、犯罪じゃないならそれこそ罰を受ける必要はどこにもなく、別に償う必要もないのでしょう。それでもこの罪悪感は、その件以降、ずっとわたしの心の中から消えてくれません。いわゆるイイコト―電車でひとに席を譲る、街でごみを拾う、会社で進んで雑用をする―をしてみても、何をしても消えないんです。わたしでこれなんだから、なにかの拍子に罪を犯してしまったひとの心中は、想像を絶するものなのでしょうね。

 

作中に不注意の事故によって人の命を奪ってしまった男性が出てきます。刑(未成年であったため正確には刑ではないのですが)を終え、罪を償った。けれど、その事故がきっかけで、別の人間が事故で人を殺めてしまった。「あの事故さえなければ」と、罪を償った男性は思い詰めてしまいます。そんな彼が、「自分は生きていていいのか」と問うシーンがあります。

 

 武藤さん、俺、生きていていいんですかね。

 若林青年が半べそをかくように言ってきた。それは言うまでもなく愚問で、答えは考えるまでもなく一つしかなく、「いいに決まっている」と答える。

(213頁)

 

簡単じゃないですよね。立場によって思うことは全く違うし、言っていいことも変わってくる。罪を、過ちを犯さないことが一番いいのは当然だけど、人間はたまに間違うので、罪や罰、償いについて、考えざるをえないんだと思います。

 

罪を犯すこと、罰を受けること、償うことを、伊坂さんらしい視点で描いた作品でした。さすがです。

 

最後に気に入ったシーンをもう一つ。

人を撥ねてしまった少年が、「人を撥ねた奴を、撥ねたらどうして駄目なんだよ。おかしいだろ」と声を荒げる場面です。

 

 「気持ちは分かる」陣内さんも言った。「試合中、ファウルされた側が病院に送られたってのに、反則したほうの選手はプレイを続けているようなもんだよな」

 「はい」

 「だけど、そいつをタックルして病院送りにすればいいってもんじゃねえだろうが」

 そうですかね?というような表情で、棚岡佑真は黙った。少し下を向いている。病院送りにして何がいけないんですか、と言いたいのだろうが、気持ちはどうせ分かってもらえないのだ、と諦めたのかもしれない。

 (165頁)

 

そこで陣内さんがこう言います。

 

「誤審ばっかりなんだよ」

(165頁)

 

誤審ばっかりなんだよ。そうなんですよね。さんざん“法”に則ることがさも正しいかのように書いてきましたが、ひと、法、社会は、いつだって誤審をしてしまう。だから不条理なことがいっぱいあって、辛くて、やりきれなくて、悲しい思いをするひとが溢れているんだと思います。

 

長くなりましたが。

昔の伊坂作品がすきな方にはおすすめです。