【雑記】気持ちを言葉にのせるということ
思ったこと、感じたことを、言葉にするのが得意じゃない。昔からそうで、人と話していて「こういうことだよね?」と言われると、「違う違うそうじゃないの!なんでわかってくれないの!」とあまりにも身勝手に苛々してしまう。だから自分の言わんとしていることをくみ取って言語化してくれる人に出会うとそれはそれは嬉しくなる。
でもそれは怠惰で甘えだ。人にわかってほしいなら、理解してほしいならそれを言葉にして相手に届ける努力は怠ってはいけない。自分の感情を分析して、適切な言葉を当てはめていく。しっくりくる表現が見つからないのは語彙力の不足だ。じゃあ、ボキャブラリーを増やしていかなきゃだめだ。
ということに疲れた。
疲れたというより、どんどんどんどん深みにはまっていっている感じ。自分の思いや気持ちがわからなくなることが多くなった。何かを見て、何かを感じているんだけど、その気持ちがどういうものか分析しようとして、感情を論理的に分解しようとして、気付いたらそれはもう、自分の感じたことではなくなってしまっている、気がする。
これはプラスの感情なのか、いやマイナスなのか、違うどっちでもないし両方でもある気がする、感動した?感動って?楽しい?すごい?きれい?なに?なになに、なに?この気持ちはなに?って。
感情を、どう形容したらいいのかわからない。正確には、どの形容詞を使って表現したらいいのかわからない。わたしの会話に擬態語が多いのはそのせいだと気付いた。
そんなことを先日人に話したら、その人は「自分の感情を過大評価しすぎだ」と言った。「日々使われている言葉に自分の感情をのせることでその感情が陳腐に思えてしまうのは、自分の感情がそんな単純な言葉にできない崇高なものだと思っているからでしょう」。
痛いところを突かれた気がした。当たってる?たぶん、そうなんだろうな。傲慢だな。もっと言うと、そう感じている自分のことを過大評価しているんだろうな。自分で自分自身を。ほんと傲慢だな。
「青緑や黄緑だって『緑』なんだよ。そりゃ、それを区別して表現できるにこしたことはないけれど、それらを『緑』って呼んだって間違いじゃないんだよ。だからわくわくしたりどきどしたりしたことをただ『楽しい』って言ってしまうのは間違いじゃない」
そっか。青緑や黄緑を「緑」って言ってしまっていいように、「楽しい」という言葉で表現できる感情もひとつに絞ることはないんだ。もっと気軽に、カジュアルに、とりあえずで気持ちを言葉にしてしまっていいんだ。
「言葉にできない」「言葉にしたくない」というときがよくあるのけれど、言葉をそんなにみくびっちゃいけない。
2014年10月に行ったグラナダ。わたしはこの風景が忘れられない。
ずっと見ていたくて、1時間以上ぼーっと佇んでいたんだけど、そのときの思いをどうやって表現したらいいかわからなくて、人に話したり日記に書いたりできなかった。
「目の前に広がるパノラマがもう圧巻で、白い家々が美しくて、ほんとにきれいで、この景色を見ることができて嬉しくて嬉しくてしょうがなかった」
これでいっか。
今の私はきっとまだアクアマリンや鶯色という言葉を知らなくて、「緑!」って表現するしかないのかもしれないけれど、ひとまず「緑!」って言ってみようと思う。シアンや若草色ってわかるようになればもっといいけれど。